偉いということ

 私の数少ない愛読書に「ユダヤ・ジョーク集」(講談社出版/ラビ・M・トケイヤー著)というのがある。今日はその中から私のお気に入りを一つ。

  • 知恵の効用

二人のラビ*1が話していた。
「知恵と金と、どっちが大切だろうか」
「もちろん、知恵に決まっているよ」
「しかし、もしも知恵の方が大切だとするなら、どうして賢人が金持ちに仕え、金持ちは賢人に仕えないのだろうか? いつも学者や、哲学者たちが金持ちのご機嫌をとり結んで、金持ちは賢人に対して横柄に振る舞っているではないか」
「それは非常に簡単なことだ。賢人は金のありがたみがわかるが、金持ちは知恵の大切さがわからないからだ」

お金を払う側に立つと、人はやたらと横柄になりがちである。大会社は下請けに「仕事を与えてやっているんだ」と思い、経営者は社員に「給料を払ってやっているんだ」と思い、買い物客はそのお店に「品物を買ってやっているんだ」と思いがちである。しかし本当はお金を払う人が必ずしも偉いわけではない。
 しかしそれならばと、下請けは大会社に「お前らの仕事をしてやってるんだ」と思ったり、社員は経営者に「俺たちが働いてやってるんだ」と思ったり、店が買い物客に「うちの品揃えのおかげでお前たちは欲しいものが手に入れられるんだ」と思ったりしたなら、それは横柄な金持ちと同じことである。話の中に出てくる賢人はきっと、「俺が仕えてやっているんだ」とは思っていないであろう。
 まぁ実際には、給料を貰うときには「俺たちが働いてやってるんだ」と思い、生活の中でお金を使うときには「この店を利用してやってるんだ」と考える人がほとんどであろう。もちろん私もその一人である。
 

*1:ユダヤ人の地域社会の牧師、教師、カウンセラー、裁判官といった多くの役割を兼ねた指導者