合理的であるということ

 例えばあなたが「盗賊」と「農民」との二択を迫られたとする。「盗賊」は相手の食料を奪うことができ、「農民」は労働の結果食料を得ることができる。相手も同様に「盗賊」と「農民」との二択を行う。

  1. 自分が「盗賊」で相手が「農民」…楽して食料が得られる。最良。
  2. 自分が「農民」で相手が「農民」…労働の結果食料を得られる。良い。
  3. 自分が「盗賊」で相手が「盗賊」…労働を行わずに飢える。悪い。
  4. 自分が「農民」で相手が「盗賊」…労働を行ったが食料を奪われる。最悪。

「盗賊」と「農民」とのうち、あなたにとって最も利益となる選択を行ってください。



 これは「ゲーム理論」という学問で、ちょっと社会科学とかを学んだ人なら触れたことがあるかと思います。一目瞭然なのですが、相手の選択肢にかかわらず自分が「盗賊」を選んだ方が利益になる。ところがそれは相手も同様なので、相手も「盗賊」を選んでくる。すると、お互いが「農民」を選んだ場合よりもお互いが悪い結果になってしまう。つまりめちゃくちゃ大雑把に言うと、各人が自分にとって最適の選択を行っても、却って損をしてしまう(ことがある)というお話。
 韓国では労働運動が盛んになりすぎてストなどをたびたび行ったため、会社そのものが傾き、高賃金を得るどころか国全体の経済成長を止めてしまった。独立採算制を取り入れた会社のある部門が、見積もり金額を見て、自社の他部門にでなく外部の業者を下請けにした結果、会社全体での売り上げが少なくなる。そのような事例はいくらでもある。
 ところが、もしも全員がこの「ゲーム理論」を熟知しており、相手のことを信頼したならば、全員で「農民」を選び全員で得をすることも可能なのではないか。来るべき未来はそういう社会であって欲しいと私は思っているのだが。残念ながら、本当に賢明な多くの人間が「農民」を選んだ際に、「盗賊」を選んで大儲けをし、自分がさぞ賢い者であるかのように奢り高ぶる人間はきっと現れるだろう。