平等であることは大切なことなのか?

颯木様のブログとか冨平様のブログとかに出ていた話を見ていて色々と感じたことがありましたので…。(ただし内容は、お二人のブログの内容とはあまり関係がないかもしれません。当然反論とかそういうのではなく、触発されて書いたって感じで。主題というよりはモチーフって感じで。)
私は独り者でありますが、結婚したならば夫婦は平等であるべきだとずっと思っております。それを完全に実践できるかどうかはまだ別として、おそらく多くの女性は夫婦が平等であることを望ましいことと考えられるのではないかと推測します。しかし。平等であることが女性にとっていつも望ましい結果を伴うとは本当は限りません。
私のイメージでは子育ても含めた家事というものは非常に大変な仕事で、外で働くことに決して劣るものではないと思っています。だからこそ、稼ぎが充分であるならば共働きはするべきではないと思うのです。例えば外の仕事の労働量を1、家庭の仕事の労働量も1とするならば、共働きでも家事は分担しなくてはならないのですから一人当たり1.5の労働をしなくてはなりません。1の仕事でも大変なのに1.5もの労働を強いられてはいずれ無理が生じると思います。また、家事は労働の総量としては1ですが分担することである程度は負担をお互いに割り振ることができますが、外での仕事はそれができない。給料半分でいいので月水金の三日だけ働かせて下さいということは通常の会社ではできない*1。であれば、やはりどちらかが外で働いて、どちらかが家で働く方がお互いに無理がないのだと思う。
で、私は夫婦平等主義者なので、どちらが外でどちらが家でもいいと思っている。ただ、特に制限がないならば稼ぎの良い方が外で働く方が効率的だ。すると現状の社会では男性が外で働く方が大抵は稼ぎがいいので、結果として女性に家事をやってもらうことになるかもしれない。もちろん女性の方が私よりも稼ぐのであれば、私の方が会社を辞めて家の仕事をするべきだろう。もちろん稼ぎの多寡だけでなく、その他もろもろの条件や環境もあるだろうが、目安の一つとして、である。
しかしここで、一つ危惧していることがある。もしも私が家で働き女性が外で稼いでくる場合、女性にどれだけの覚悟があるかである。独身にしろ結婚しての共働きにしろ、働く女性から発せられるのは「働きたい」という言葉だ。もちろんそれは女性が外で働くことが難しい現在の社会における、女性の切実な叫びなのだろう。しかしその言葉の裏には覚悟があるのだろうか。「働きたい」から働くのではなく「働かなくてはならない」から働くという覚悟が。私の好きな漫画の一つである「課長 島耕作」の中にこんな台詞がある。「悲しいよな、サラリーマンて…。クビになっても一家の大黒柱にはかわりない。妻子を養うギムは依然消えるわけじゃないんだ。*2」それを充分承知した上で女性の方が働きたいというのであれば、私は家の仕事をやる。男女不平等な社会かもしれないが、そのおかげか男性には自然とこういう意識が根付いている。もちろん逆も言えるだろう。女性が自然とできる家の仕事でも、男は逆に相当の意識と覚悟を持たなくては主夫は務まらないと思われる。私は家の仕事をやると前述したが、実際にそうせざるを得ない場面になった時、どこまでの覚悟ができるかは未知数であるが…。
で、ここまで考えてみると、男女平等は必ずしも権利が広がるというものではない。平等であるということは、今まで知らず知らずのうちに一方的に受けていた恩恵や利益も放棄してしまい、新たな足枷を生むことが多いからだ。結局のところ肝心なのは平等かどうかでなく、夫婦のお互いが納得のいくやり方であるかどうかなのだろう。お互いが納得いくのならば、不平等だろうと封建的だろうと革新的だろうと関係ないのだ。私は夫婦平等でありたいと強く思っているが、それは変なフェミニズムとかから来るものではない。平等を成し遂げるにはお互いの理解と協力、さらにお互いが自立しており強くなくてはならない。そういう自分になりたいと、同時にそういう相手を伴侶としたいと、そういう思いからであり、いわば目標のようなものである。

*1:最近では派遣とかもあるので、そういうところならできるのかもしれないが、それはそれで望ましいことである。

*2:最近の世情を考慮するならこの台詞の中に「会社が倒産しても」という言葉も加えるべきかもしれない。