無駄を省く。

 来年からいよいよ裁判員制度が始まる。我が家には一通も来なかったが、既に通知が届いている人もいるらしい。
 それにしても、この欠陥だらけの制度を、よくもまぁ国が行う気になったものだとあきれてしまう。なぜ法の素人に有罪か無罪かの決定権の一部を与えるのだ? 医者が素人に手術を手伝わせるか? 船乗りが素人に船の操船をさせるか? 裁判官に世間一般的な感覚が抜け落ちているというのならば、それは裁判官自身が勉強すればよいことであって、そこに素人を、まして参考程度に意見を聞く程度のものでなく、決定権の一部を与えるなど、とても正気の沙汰とは思えない。
 仮に決定権がなくとも、裁判官が素人の意見を聞くことそのものに問題がある。これは、例えばメーカーが一般の人の意見を聞いて商品の開発や販売の参考にするのとは根本的に異なる。なぜならメーカーは一般の人の要望に応えることが商売すなわち仕事であるのに対し、裁判官は法に基づくことが仕事なのだ。世間の顔色を窺うのが仕事ではない。おそらくほとんどの裁判官はそれを心得て、マスコミの無責任な煽りによって判断をゆがめることがないよう肝に銘じ、法に殉じて判決を下しているはずだ。ところがここに、無作為に選ばれた素人集団の判断が判決の結果を左右することになるとどうなるか。彼らはおそらく、自身の意見が知らず知らずのうちにマスコミ等の影響を受けていることに無自覚であるし、自らの主義主張によって事実を自己の中で歪曲してしまう可能性について無自覚であるし、相手の性別や容姿・仕草などによって無意識に贔屓してしまう危険性についても無自覚である。
来年は日本の裁判制度崩壊の第一歩の年となるであろう。


不況と高齢化で、国の財政はますます苦しくなっている。与党も野党もマスコミも国民も、無駄な支出をなくすべきだと毎日声高に主張している。それにもかかわらず、裁判員制度の開始は順調に目前まで迫っている。裁判員制度を浸透させるための啓蒙活動にここまでつぎ込まれた費用はどれほどか。裁判員に選ばれた人からの質問あるいは精神的ケアにこれから注がれる費用はいかほどか。裁判員制度を成り立たせるためのシステムや裁判員に選ばれた人への日当などの経費はいくらになるのか。企業だって、選ばれた社員に休みを与えなくてはならないのだから、必然的に生産能力は落ちる。
私は裁判員制度は悪法だと思っているが、良い制度だと思っている人ももちろんいるだろう。しかしそれにしたって、良い制度だと思っている人が国民の8割9割を占めるとは思えない。それならばその費用を医療や福祉に回す方がはるかに良い。財源さえあるならば、医療や福祉に予算を回すことが良いことだと思う人は、きっと国民の10割近くであろうから。