「宗教」と「宗教的」であること

 靖国神社に代わるものとして無宗教の墓地を新たに作ろうと言う人が世の中にはいるとか。「無宗教の墓地」って意味分からんね。死者を悼むという行為はすでに宗教的行為だ。もしも無宗教の墓地と言うものが存在するとしたらそれはどんなものだろう。宗教的でないのだから、いわゆる死者に敬意を払ったりとか死後の世界観などは存在しないのだろう。で、墓地と言うからには死体を埋葬したりの何らかの処置を行う場所であるはずだ。


なんだ。人間の死体専用のゴミ捨て場か。

 そんなものを本気で作ろうと考えている人間が日本にいるのか。それとも「無宗教の墓地」というのがどういうものか考えもせずに言っているのか。

 日本人はあまり、「宗教」と「宗教的」であることを区別しない。その理由を考えるには、そもそも「宗教」とはどういうものかを定義しなくてはならない。私は専門化ではないので独断になるが、おそらく教義とか活動団体・組織とか戒律とか経典とか開祖とかがあるのではないか*1。ところが日本にはそもそもそういう意味での「宗教」は存在しない。八百万の神がおわし、死んだ人も神様になる。どう考えてもキリスト教だの仏教だのとは性質が全く異なる。だから日本では宗教と言えば「宗教的」なことと同意なのだ。そういうわけで、外国から入ってきた「宗教」と、日本に古来からある「宗教的」なこととの区別がつかない人が現れる。
 いわゆる政教分離とは、キリスト教的・仏教的な「宗教*2」と政治とを切り離すことであって、「宗教的」行為を切り離すものではない。宗教的行為すら切り離さなくてはならないのであれば、創価学会を母体にする公明党などは政党として認められないことになる。靖国参拝も同様に全く問題ない。あれは「宗教的」なことであって「宗教」儀式ではない。
 ここまで書けば、「無宗教の墓地」という言葉が滑稽であることがはっきりする。ここでの「無宗教」という言葉が「宗教」でないという意味ならば、靖国神社参拝は「宗教」儀式ではないのだから全く意味が無い。「無宗教」という言葉が「宗教的」でないという意味ならば、上記したように死体をゴミ箱に捨てるしかない。

 ちなみに諸外国でも「無宗教」という思想は存在しない。あるのは否宗教で、いわゆる「宗教」を否定するだけだ。宗教的なものを否定する人がいたりしたら、どの国の人もその人を気味悪く思うことだろう。

*1:もちろん、これら全ての要素を必ず含んでいるという意味ではないが。

*2:宗教団体・宗教組織・宗教活動と言い換えてもよいかもしれない。